宵待月


○○○、嗚呼、なるほど。と、あの人は笑った。
黒い、美麗な人。
銀色の、綺麗な人。
【カナリア】、とあの人は私を呼んだ。何故か、は知らない。
【カナリアのレディ】と、あの人は私を詠んだ。
だから、私はカナリアになった。それ以前の私の名を、私はもう思い出すことが出来ない。

漆黒の闇を幾重にも重ねに重ねて塗り固めた、一つとして明かりの無い夜の部屋の中で、長いまどろみから少女は目覚めた。
重苦しく、深い闇が彼女の総てになったのはもう、何時の頃からか。
初めのいくらかは哀しみやら悔しさやら怒りやら憎しみやらで、数えていたものだけれど、両の手を何度か潰した頃に無駄なことだと数えることすら止めてしまった。
数えようが数えまいが、何れ終わりが来るまでは、この生活が破綻しきってしまうまでは何も変わりはしないのだろう。
長年暮らし続けるこの館が、長い年月を経ているにも変わらず、彼女が来た当初から染み一つ増えず、傷一つ出来ず、埃一つ落ちては居ない、呆れるほど何一つ変わりはしないのと同様に。
寝具から、地面へと足を落とす。裸足のままの足には冷たいはずの硬い地面は、けれどその冷たさを伝えない。
ぺた、ぺたと音を立てて、少女は洗面所へと向かった。
水道を一ひねり、勢い良く流れ落ちる水を洗面器へと入れて、彼女は顔を上げる。
本当は寝癖が無いかとか、ゆっくり化粧をしたりだとか、すっきり顔を洗ったりだとか、したいのだけれど。
備え付けの鏡台には誰も映っては居なかった。
化粧一つ、満足に出来やしない。
いや、化粧なら、慣れれば出来るようになるだろう。だが、化粧を落とすことが出来ないのだ。
憎憎しげに彼女は思う。此処に来た当初、余りにも悔しくて、鏡台を割ってしまった事があった。
―そ、っと触れたつもりだったけれど、びしり、と鏡に蜘蛛の巣性のひびが入り、鏡が落ちた瞬間の衝撃は未だ忘れることが出来ない。
けれど何より衝撃だったのは、割れ落ちた鏡が次の瞬間にはビデオの巻戻し再生のように、鏡が合った場所に着いたままだった、自分の手の下に破片が、ひびへと返り、元の鏡として戻ったことだった。
大きな叫び声を上げたけれど、誰も出てこなくて、きっと、私は夢を見ているのだと、混乱した頭で何度も思った。
もうとうに諦めてはしまったけれど未だに夢だと思う。悪夢なら覚めて、とどれだけ祈っても、悪夢は目覚める気配を見せない。
洗面器に水が溜まった頃合に、蛇口を捻る。本来なら石鹸を置く場所にある瓶詰めの緑色の粉末を水へと混ぜる。
お茶の良い匂いが、ふわり、と鼻腔をくすぐった。直ぐに水に溶ける粉末のお茶――、全く良い時代になったものだと思う。

タオルを浸して、絞る。
本来なら、水に触れると火傷を追うが―火傷ですめば可愛いものだ、下手をすれば焼けただれ、そのまま灰になる。
―、お茶は厳密には水ではない、という判定がされているらしい。吸血鬼の呪いは存外いい加減で、いい加減なもので良かったと、心底思う。
お茶を搾ったタオルで顔を拭いて、もう皆出かけたか、それとも、まだ寝ているかのどちらかだろうと、考えながら台所の扉を開けた。
人気の無い台所を見渡して、何か小さな影を見つけ、再び其方へと視線を移し少女は瞳を見開いた。
「やァ、レディ。随分と久方ぶりだね、元気そうで何より。」
にこり、と、人好きのする綺麗な笑顔の―女だか男だか解らない、綺麗な中性的な容貌の子供が立っていた。

後ろ髪ほど長い、ざんばらの銀色の髪、血のような赤い瞳、血色が悪いのか顔は白いを通り越して青白くすらある。
「……、だ、れ?新しく入ってきたヒト?」
最後のヒトが此処に来たのは何時だったか。
―…最近は誰も此処に、入っては来ないのに。しかも、新しいヒトだとしたらば、こんなまだ年端も行かない子供が、と僅かに同情の念が生まれ、彼女は眉根を寄せた。
一体、どれだけ、不幸にしたなら気が済むのだ。
僅かに首を捻る少女に愉しそうな表情を浮かべた子供は僅かに肩を竦めて、違うよ、と言った。
「それじゃあ、迷子?だめよ、此処まで入ってきちゃあ。どうやって入ってきたか解らないけどね、此処は、危険なの。入り口まで送ってあげるわ。」
「裸足のままで?レディの足元の方が危険だと思うよ。」
くすくすと愉しそうに笑いながら子供は首を傾げて、少女は破顔した。
「そうね、でも、そういう事じゃあないのよ。」
靴を履くわ、一寸待ってね、と言い置いて、椅子の傍に放置しているヒールに足を突っ込んで、少女は子供を指差した。
「貴方みたいな美味しそうな子供がこんな所に居ちゃあ食べられちゃうわ。」
トントン、と爪先で床を蹴り付ける、その仕草を愉しそうな笑顔のままの子供は僅かに首を傾けて見つめている。
「食べられる?……、レディに?」
「そうよ。此処が何だか、貴方知らないでしょう?」
さぁ、玄関まで行きましょう、と子供へと手を伸ばすと、白い手袋に包まれた子供の手が少女の手を軽く握った。
台所を抜けて玄関へと向かう道のりを歩きながら、軽口、と返って来た言葉に一つ頷いて、返した言葉に自分がそう告げられたなら、何を馬鹿な、と思うだろうと、思い、僅かに苦く、笑みが浮かんだ。
子供の弧を描き、笑みの形と閉じた口元を見下ろしながら、この子供に噛み付いたならこの表情が崩れるのだろうかと、僅かに思い、笑顔以外の表情が思いつかない事に心の中で少しうろたえた。
「此処は、鳥篭。」
「鳥篭?」
「吸血鬼の巣窟よ。」

ぴ、ぃん、と一瞬張り詰めた空気に少女は小さく嘆息した。
目の前の子供は目を丸くして――、それで少女は少しだけ、ほっとした。―次いで微笑んだ。
「そうなんだ。」
「そうよ。だから貴方みたいな子供がこんな所に来ちゃあ、駄目なの。解った?」
「うん。レディ?」
「…なぁに?」
不意にぎゅう、と強く手を握り締められて、怖くなったのだろうかと、足を止め見下ろした子供は、愉しそうな笑みを浮かべたままで少女は眉根を寄せた。
「……君は、僕がハンターだったらどうするつもりなの。」
痛いほどに握り締められた手が子供の方へと引かれて、瞬間、何かが頭の中でスパークした。
飛び込むように身体を此方から前方へ倒し、タックルするように子供の胸かもしかしたら顔も思いっきりぶつけたかもしれない。
上半身を後ろへと僅かに倒した子供の膝の辺りを踏みつけ、体重をかけて、強い力で後方へ蹴り付ける。
強い力で握られていた筈の手は、するり、と、嘘のように引き抜けて、子供から4、5m程離れた所に、両膝を曲げ衝撃を殺して少女は飛び降りた。
顔面蒼白にしながら少女は子供を睨み付けた。
その通りだ、もしも、是が、ハンターだとしたのなら、今の自分の誠実さ――いや、親切心はそのまま自分を含めた皆を危険にさらす事になる。
どうしよう、どうする?残念ながら自分は戦闘に特化していない。自分が打てる手は逃げの一手だけだ。
事実そうして生き延びてきたのだ。
けれど何処に逃げる?此処が抑えられて、否、此処が抑えられたからこそ、逃げ延びる事さえ出来れば自由になれるのではないか、勿論今だって自由度は高い。
高いが気紛れに帰ってくる主人に悪戯に気を乱される事は無くなるだろう。どうする?どうすれば良い?
閉じた思考をフル稼働させ逃走経路を瞬時に組み上げる。
対する子供は、と言えばまるでダメージなど無いかのように、両腕を組んで、やはり楽しそうな笑みを浮かべて少女を見ていた。
まるで。と、少女はぞっとした。逃走経路を追う思考と別の、何処か感情がざわりと、動いた。

まるで、観察者だ。
焦る自分を見て楽しむ、観察者。
蟻の巣に水を流し入れ、どうなるのか笑いながら待つ、無邪気であるが故に残酷な子供のような。

何か考えていたらしい子供は両腕を下ろすと足音も立てずに気軽な様子で子供は此方へと近づいてくる。
近づくのと同じだけ後ろに後退し、書庫へと繋がる扉へと近づいた。書庫から出るのが一番手っ取り早い。
――中は複雑だが、此処に慣れて居ない者には迷路同然だからだ。
後ろでにドアノブに手をかけ、ゆっくりとまわそうとする、が、何か、中から抑えられてでもいるかのように、もしくはさび付いてしまったかのように扉は回らない。
「ぇ…?」
「無駄だよ、カナリア。……って、やぁれ、やれ。まだ、解らないのかな?」
ふぅ、とやけに大きな溜息を落として、子供は呆れたような表情を浮かべて髪をかきあげた。少女は思わず動きを止め子供を見つめた。
「それとも、久方過ぎてもう、忘れてしまったのかい?…聞いてるかい?ねぇ、カナリア?」
煩悶の表情を浮かべた少女を見やり、子供は大袈裟に両手を広げて、彼は馬鹿にしたようにもう一度溜息を落とした。
「元ニンゲンってヤツは、気配を読むに長けなかったか、魔力を織るに足りなかったか、って所かな。私だよ、カナリアのレディ?」
「……え?」
何で名前、と考えて、誰かが呼んでいるのを聞いたのかもしれない、と思い至る。
だが、従者であるという事に、気づく者はせいぜい、同種族しか居ない。という事は紛れも無くこの子供は、吸血鬼の一族に属するものなのだろう―主人か、従者か、はぐれか、ダンピールかは解らないけれども―。
諦めずに逃走経路を再度検索しつつ、僅かに後退し―前に行くのは不味い、と思う。なんとなくだが。
―何かが後ろから背中をトン、と押した。思わず振り返る。
その先にいたのは、年の頃は17、8歳、身長は僅かにカナリアの方が上だろうか、―すらりと伸びた手足が雪のように白く、膝裏までの長い漆黒の髪に、影を落とす程の長い睫に縁取られた硝子のような血のように紅い瞳、魅惑的に紅い唇の、整いすぎた人形のような顔立ちの少女だった。
「管理人…!」
ほ、とカナリアは詰めていた息を吐き出した。是で安心だ。――此処の管理人である彼女は、主人と同等、もしくはそれ以上の力を持った悪魔で、ハンターなど簡単に排除出来るからだ。
「冗談が。過ぎるのでは。なくて?ヴァンプ。」
「…………、え?」
管理人は僅かに口の端を笑みの形に歪めて、真っ直ぐに子供を見ている。思わず子供を振り返ったカナリアは、困惑の表情を浮かべた。歩くような気軽さで足音も立てず酷く軽い動作で二三メートルを一気に飛んできた子供は、僅かに瞳に色を乗せて、愉快そうに微笑みながら軽く片手を挙げた。
「やぁ、姫君。少しばかり私も反省していた所さ。嗚呼、でも随分と遅かったね。――美味だったかい?」
「ええ。美味。だったわ。」
「え。…、ええええーーー!!!」
和やかに会話をする二人の間で、カナリアは声の限りに叫んだ。
…、ありえない。だって主人は20代位の作り物めいた綺麗な青年で。
確かにこの子供が成長すればあんな感じになるかな、って言われれば思うけれど、それでも、それだって、ありえなさ過ぎるのだ。
倒れなかっただけ、マシだと思う。
「なんでなんでなんで!!子供の姿なんですか!!!!」
「や、それがね、話すと長くなるんだけど、姫君の血を吸ったらこんなことになってしまってね、いやぁ、驚いたの何のって。世の中不思議な事があるもんだよね。」
「だから。危険。だと。言った。のに。」
愉しそうに微笑む主人と呆れたように首を竦める、管理人―二人共名前は知らない―、に僅かに気が遠くなりながら少女はがっくりと崩れ落ちた。
自分の今までのあの労力は何だったのだ。労力というか、恐怖というか。
「カナリア?」
「何ですか、御主人様」
憮然、と返した言葉に、主人は呆れたような笑い声をたてて、顔を上げると思わず見惚れるほどの酷く綺麗な笑顔があった。
「そんなわけで、一寸是、解きに言ってくるから後の事宜しく。」
「何ですか、それ、そんなこと言ってると、帰ってきたとき何にもなくなっちゃってても知りませんよ。」
「構わないよ。」
にこにこと、笑う主人はきっと、そう、なのだろう。何も、誰も、なくなっていても、構いはしないのだろう。それは解っているのだ。重い溜息を吐き出して、少女は弱弱しく頷いた。

【カナリア】そう呼ばれる事が、今の私の全てで。
【カナリアのレディ】と呼んでくれるから、結局私は又、待つのだろう。

「行ってらっしゃいませ、御主人様。」
スカートの裾を持ち上げ、腰を折り、呆れたような心底疲弊した声で、少女は小さく呟いた。




フェイク(ヴァンプ)の従者、カナリア(脇役)のお話。

2007.11.17

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