夕暮れが近く薄暗い図書館の、閲覧席に座って机の上にエルフ語で書かれた本を開き、頬杖を着いた少女は、疲れたと一言呟いて、カーテンの開いた窓の外を見やった。如何にも郷愁を誘うような、懐かしいような泣きたいような不思議な気分にさせる時間帯の光は其れでも眩くて少女は瞳を細める。
ぱらぱらと本を捲る音だけが響く、静かな室内には少女ともう一人の少女以外誰も居ない。 司書はカウンターの奥に既に引っ込んでいて、申し訳程度にその扉が軽く開いている。 窓の外を飛び立つ白い鳥が甲高い声で歌う。 「もう直ぐ日が落ちるわね。」 ぽつり、頬杖を着いた少女が独り言のように呟く。返事は無い。 本を捲る音だけが響く室内に、不意に抑揚の無い声が零れた。 「運命の人に出会ったわ。」 だだっ広い書庫の中、書架を背もたれに分厚いエルフ語で書かれた文献を読む少女が顔も上げずに、何ら脈絡の無い言葉を独り言のように呟いた。 頬杖を着く少女は不思議そうに彼女を見やって、暫しの沈黙の後に溜息を一つ落とし何事も無かったかのように視線を窓へと戻した。 「………そう。」 「………………うん。いつか。」 ぱらぱらと本を捲る音だけが響く。余りに小さな声で呟かれたものだから、上手く聞き取れずに少女は顔を再び少女へと移した。 「え?」 「いつか、後悔するのかな。」 本を捲る速度を変える事無く、本から顔を上げる事無く少女は続けた。疑問系ですらない、既に答えの出た呟きは僅かに懺悔じみても聞こえて、少女は机に頬杖を着いてつまらなそうに応えた。 「…………そうね。」 「………そうよね。」 如何にも愚問だったと言わんばかりの同じ響きで少女は応える。本を捲る手は止まらない。けれどその手が僅かに震えていることに気付いて少女は半目でじとりと、彼女を見やった。くしゃりと前髪を掻き揚げて、わざとらしい大きな溜息を一つついてやる。 「リュリエル。」 「ん?」 少女がようやく本から顔を上げる。ついでに体重も後ろへとかけたらしく、もたれ掛かる書架がほんの少し悲鳴を上げた。 「忘れてしまいなさいな。」 下らない三文芝居の、もしくは三文小説の台詞のように、頬杖をついたままで、にやにやと笑みを浮かべて少女は言う。 「…どちらを?」 「どちらでも。」 「…どちらもを?」 「お好きなように。」 言葉遊びだ。一種の。リュリエルは本を胸に抱いて頭上を仰ぎ溜息を零した。否、言葉自体が溜息じみていただけで、それは溜息ではなかった。 「無かった事には出来ないわ。」 「相変わらず、潔癖ねぇ。認めてしまえば良いのに。」 「…何を?」 「何もかもを。」 ふ、とリュリエルは噴出した。少女に視線を向けて猫のように瞳を細める。 「貴方も相変わらずだわ。可愛い我侭なお姫様。……まるでその言は甘い果実のようよ。」 リュリエルの呟きは、楽しげでそのくせ妙に硬質で、少女は呆れたような表情を浮かべついで、不意に真顔になり、酷く緩慢に瞬いた。 「甘言ってぇのは褒め言葉じゃないわね。」 「褒めたつもり無いもの。」 いけしゃあしゃあと応えたリュリエルに、このっ、などと笑いながら返した少女は、瞬時に表情を変えた。酷く真摯でまじめな瞳をリュリエルに向けて、背筋を伸ばす。 「……リュリエル。忠告だけはしてあげる。忘れてしまいなさいな。其れは、貴方にとって毒でしかないわ。其れも猛毒よ。」 「ご忠告有難う。ティアエル。……でももう、見てしまったのよ。起こった事を無かった事には出来ないわ。」 「誤魔化して折り合いをつければ良いのよ。もう私達は昔の世代とは違うのよ。」 「…………否定はしないわ。」 「だったら認めてしまいなさいな。」 「出来ないのよ。其れは。其れだけは。」 ふ、とティアエルは頭上へと視線を上げた。酷く泣きたい気分で大きな溜息を吐く。 「…馬鹿ね。馬鹿だわ。大莫迦者よ。」 僅かに震えた声に、リュリエルは苦笑を浮かべてティアエルを見つめた。 「………そうね。」 ただ沈黙だけが落ちる室内では時を刻む音だけが酷く大きく鳴り響いていた。いつの間にか日はとうに沈みきって、淡い光が部屋中を照らしている。 「リュリ。」 永い沈黙を破ってティアエルが怒っているような、今にも泣き出しそうな不思議な表情でリュリエルを見つめた。 「…私は、貴方を失くしたく、無いわ。だって私、貴方が好きだもの。失くしたく、無いのよ…!!」 「…私もよ。ティア。」 「だったら、だったらどうして!!」 小さく叫ぶような声が胸に痛くてリュリエルは僅かに視線を机の上へと外した。何か告げようと開いた口を閉じ、下唇を噛み締めて視線を再びティアエルへと戻す。 「………何も変わらないわ、ティア。何も。……離れても。もう二度と言葉なんて交わせなくても。私はずっと、貴方が好きよ。貴方をずっと、親友だって思ってる。忘れたりなんてしない。」 「…変わらないものなんて無いわ、リュリ。時計の針が進む限りは、同じ場所へ戻ってきても同じなんかじゃ有り得ないのよ。…大嘘つきね。」 「嘘つき、なんて、褒め言葉じゃぁ、無いわね。」 「褒めたつもり無いもの。」 「あら。……さっきの話に戻るけど。良いんじゃない?一つ位不変の物が増えても。」 返事は返ってこなかった。 つん、と唇を尖らせて開かれた本に視線を落とす少女にリュリエルは再び本へと視線を移して文章を目で追った。 耳に痛い沈黙の中で、時を粉々に刻む音とページを捲る音だけがひたすらに響く。 「…ねぇ。」 「……ん?」 「いつか。」 「…いつか?」 「会わせてね。リュリの運命を変えやがった、人。もしくは気付かせやがった人。」 ゆるり、瞳を見開いてリュリエルはティアエルへと目を向けた。満足そうに笑う顔が見える。 「何時気付いたの?」 「だって、リュリよ?そういうことに決まってんじゃない。」 「ぷ、酷。」 軽く二人で笑う。その声はどこか空虚でもあって、不意に微妙な雰囲気をぶち壊すようにティアエルが明るい声を発した。 「そういやどう?終わりそう?」 「あー、うん、殆ど構想は出来たわ。」 「えー、まーじで?私まだ半分くらいしか出来てないのに〜。」 「じゃ、手伝うわ。どうせまた共同制作で出すつもりだったんでしょ?」 「あったり〜。だからリュリ、好きよ。そうと決まれば、ほらほらさっさと帰りましょう。」 音らしき音も立てずに立ち上がった後に、開きっぱなしだった本を音を立て閉じ、手にしたティアエルは先に立って歩き始め、早く、とリュリをせかした。 解けるような笑みを浮かべてリュリはのんびりとティアの後ろを追うように歩き始めた。 穏やかな薄暗いような光の中でティアが咲くように微笑んで、リュリを振り返った。 足取りが早くなったわけでも遅くなったわけでもなかろうに、気がつけば隣に相手が立っている事実に、胸の奥が僅かに傷んで本の少しだけ泣きそうになった。 こんなにも一緒に居たのに。―こんなにも、一緒に居るのに。 それは永遠には到底結びつかず、示された道は逆方向へと伸び、恐らくは、いや、きっと、そして望むべくは”絶対”に、この道が交わる事は無い。 戯れのように触れ合った指先を子供のように繋いで、沈黙と空虚な言葉と下らない話を繰り返しながら、このまま時が止まれば良いと罪深い事を戯言のように願ったのは―どちらだっただろうか。 嗚呼、もうこんな風に居られ無いんだと、僅かな感傷のように思うと僅かに目の奥が痛かった。 「有難う。」 数え切れないほどの沢山の物に。 心の底からの、祈りと祝福を。 天使の頃、堕ちる決心をした後の、堕ちる前の話。 2008.03.16 |