柔らかな白い皮膚が、静かに凍りつき始め、娘は驚いたような表情を浮かべ、肘に手を当てた。 何が起こったのか解らない、と云った表情を浮かべたのはけれども一瞬で、直ぐに彼女は己に何が起こったのか、を理解した。 ――――即ち、時が来たのだと。 娘は綺麗な、綺麗な極上の微笑を浮かべた。 まるで、長年探し続けた宝物をようやく見つけたかのような、ほっとしたような、懐かしむような、空虚なような、―――決して此処に在る何かを見ている訳ではない、何処か、誰も理解出来ない何処かを、心の底から何よりも愛しむような。 まるで、待ち焦がれた恋人にようやく再び巡り逢えたかのような、甘い甘い、笑みを。 「シェリィ?」 子供独特の、甘ったるく高い声が娘を呼んだ。 娘は、動きを止めたまま、視線だけを其方へと向けて、柔く微笑んで、宝物のように其の名前を転がした。 「アディ。……まぁ、リュリ。久しぶりね、いらっしゃい。」 シェリィの血族に連なる者―、何代目の子孫かは覚えていないけれど―アディと、彼女の親友の子孫、最近は専ら忙しいのか此処に訪れなくなったリュリが扉の前に立っていた。 「お久しぶり、シェリィ。……、どうしたの?」 アディが満面の笑みでシェリィに飛びつこうとするのを楽しそうに、へらり、笑いながら眺めるリュリが、一切の身動きをとらないシェリィの姿に――常ならきっと両腕を広げる筈だ――不思議そうに首を傾けた。 「ふふ、時が来たの、リュリ。ようやく、ようやっと。信じられない位満ち足りて、幸福よ。」 「…………、シェリィ。」 うっとり、と、幸福でたまらない、と微笑むシェリィにアディは抱き着いて、ぎゅうぎゅうと小さな両手でシェリィを抱き締めて、いつものように抱き締め返してくれないシェリィに不思議そうに瞬いて見上げた。 「シェリィ?」 シェリィは何も答えずに只、優しい微笑でアディを見下ろし、リュリを見やった。 「アディ、リュリ、愛しい子供達。愛しい、愛しい子供達。」 「幸せに、お成りなさい。」 己の幸福は此処に在る、今、此処に、紛れなく存在している。 其れなら他者に望む事など、其れだけだろう。 唯、只唯、唯、幸せで。 「シェリィ?」 訳が解らない、と云った顔をしたアディが不安そうにリュリとシェリィを何度か見つめ返した。 シェリィも、リュリも、笑ってる。 笑ってる。其れなら嬉しいんだろうか。楽しいんだろうか、なら、如何して、こんなに怖いんだろう。 何かを耐えるような表情を一瞬だけ、浮かべて、リュリはいつものように笑って、優しい、けれど強制力を持った声で、アディ、と呼んだ。 「厭。」 厭々、とアディは首を強く横へと振って、けれどもう一度聞えた静かな、アディ、と呼ぶ声と、シェリィの、アディ、と呼ぶ声に、アディは、ぐ、と息を飲み込んで抱き締めていた両手を離した。 「何で何で何で、何があるのどうして駄目なの!」 「アディ。」 柔らかい声が聞えて、優しく微笑む表情を見上げて、アディは只、困惑した。何がかは解らないけれど、何かが、今此処で起こっている事だけは、何かこう、肌を刺すような、全身が粟立つような感覚で解った。其れは恐怖に近く、そして、高揚にも近かった。 白い腕がそ、とアディの背中から伸びてきて、少女の鎖骨の下で強く組まれた。組んだ、その腕が僅かに震えていて、アディは、やはり何かが起こっているのだと、確信した。こんな事は初めてだった。 「愛しているわ。愛しい子供達。愛しているわ。何時までも何処までもずっと、」 愛している、と子守唄のように、壊れたレコーダーのようにシェリィは幸福そうに微笑んだまま繰り返し続けた。 アディは、何か、ぞっとして、鎖骨の下、組まれた両手を小さな両手でぎゅう、と握り締めた。 愛を囁く其の声音は、優しいけれど、薄っぺらく、徐々に平坦に成って行く。只、其れだけしか知らない、人形のように。 シェリィの白い肌が、急激に年老いて、否、柔らかそうな質感を失くしていく。 まるで白磁の陶器のように、如何にも硬そうなものへと変化を遂げた。 アディは目を見開いた。 抱き締めてくれるあの、両腕が。暖かくて、柔らかくて優しい、あの腕が。 数分を持たずして、シェリィの身体は、まるで最初から物言わぬ彫刻であったとでも云いたげな、白磁の陶器へと変わり果てた。 小さく小さく、小さくなった声は、まるで風の音色のよう。 けれど確かに彼女の声で、やはり只、愛している、と繰り返している。 明確な音色は風に嬲られて、柔らかな旋律へと色を変えた。 柔らかな、旋律。 耳に覚えのある、魂に刻み込まれた、其の旋律の。――――其の、意味は。 教会から流れる、天へと立ち上る、其れは。 死して尚、与えられた只一つのお役目。死すが故に、与えられた、たった一つの。 誇りとも、命題とも、幸福とも呼ぶ其れは。 主が眠りに着いて、尚、断ち切れない操り人形の糸のようなモノ。 ――、いいや、繰り人形ですらないのかもしれない。糸を断ち切ってみれば、最早其れは一つのシステムとして成り立つ、自動人形だったという、それだけの事。 今此処にある、是、は。 リュリの両手を力任せに握り締めて、アディはひゅ、と喉を鳴らした。目の奥が痛い。胸が締め付けられるように痛くて、鼻の奥が、ツン、とした。 つまり、そういう事。 不意に、パキン、と軽い音が響いた。 石のように固まって、罅割れ始めた皮膚が崩れ落ちた音だった。 ぼろぼろと、腕が、肘が、膝が、頬が、髪が、音を立てて崩れ、風に曝され、塵となって、光に融けて行く。 誰よりも幸福そうに微笑むシェリィの柔らかい瞳を刻み付けて、刻み込んで、アディは大声を張り上げて、泣いた。 アディを抱き締めるリュリの手は一瞬ですら緩む事はなく、泣く事で必死だったアディは、リュリの哀しみと羨望に揺れる眼差しに気付かなかった。 気付かなくて、きっと良かった。 ――――いつか、未来のどこかで、アディは思い知る。 哀しみの裏で、矛盾した形で付き纏い続ける、羨望に。けれど其れは未だ、ずっと未来の事で良いのだ。 そうでなければあんまりにも救いがなさ過ぎるから。絶望を希望と呼び、希望が絶望であると知りながら、歩かなければ成らない、運命など。未来など。定めなど。 けれど、其れでも尚、絶望は、確かに、希望なのだから。 「逝ってらっしゃい。」 何もかもを押し殺したリュリの声が小さく聞えた気がした。 死ぬ、と云う事。終わる、と云う事。滅すると云う事。 其れが再生である、と云う事。 極上の幸福は、真実、どうしようもない絶望で、この上ない希望であると云う事。 満ち満ちた矛盾。其れに気付きながらも目隠しをし続けるマリオネット達のお話。 2008.10.11 |