祝福


恐れるものなんて何も無かった。
怖い事なんて何もなかった。
傷むものなんて何も無かった。
痛むものなんて何も無かった。

名前も知らない、辺鄙(へんぴ)な街で小さな赤子が息づいた日、私は母親に祝福を与えた。
いつも傍で慈しみ、赤子が生まれてくる日を心待ちに数えた。
名も無い辺鄙な街の、辺鄙な場所にある屋敷で、赤子を声を上げた日、私は赤子に祝福を与えた。
この両手に持ちうる全ての祝福を。
その額に。その頬に、その目に、その耳に、その口に、その両の手に、両の腕に、胸に、足に。
やがて赤子が病気になり、一人歩きを始め、怪我をし、友達を作り、喧嘩をし、泣き笑い眠り、目一杯遊び、傷つき優しくなり、勉強し、年を取っていくのを、私は唯見守り続けた。その隣で。その後ろで。その前で。

赤子は何時しか子供になり、大人になって、責任を背負い、恋をし、愛を知って、子を為し、仕事をし子供を育て、そして老人になった。
私は唯見守り続けた。
それらの年月は長く、そして嘘みたいに短かった。まるで泡沫の夢のように費やされた日々は、静かに静かに終わりを告げた。
老人となった嘗て赤子だった子供はベッドの上で自分の子供や孫達に看取られて幸せに息を引き取った。はらはらと、静かに雪が舞う夜だった。
私は老人に祝福を与えた。
今はもうぬくもりを失った、その額に、頬に、開かないその瞳に、聞こえないその耳に、何も伝えないその口に、動かないその両の手に、腕に、胸に、足に。
そして体を抜け出た赤子を、天へと導いた。いつかまた生まれるその日の為に。

幾年も数え切れない年月が過ぎた。
私はその間はずっと実家で暮らし、呑気に趣味に没頭したり、留まった魂を捕獲し天へと導く仕事だけをし続けた。
幾念も幾年も。数え切れないほどの歳月に、数え切れない程の魂を見送り、見届けた。

名前も知らない辺鄙な街で、小さな赤子が息づいた日、私は母親に祝福を与えた。
母親は酒を飲み苛立ったように叫んだ。子供なんて要らなかったのに!!
私は唯その傍で哀しい母を慈しみ育つ赤子を慈しみ愛した。
名前も知らない辺鄙な街の薄汚れたアパートの一室で小さな赤子が声を上げた日、私は赤子に祝福を与えた。
両手に持ちうる全ての祝福を。
その額に、その頬に、生まれつき欠けた愛しいその瞳に、その耳に、その口に、その両の手に、両の腕に、胸に、足に。
赤子は独りになり、病気になり、誰にも看取られず、温もりすら与えられず、呼吸を失くした。
はらはらと雪の降る冷たい朝だった。
私は赤子に祝福を与えた。
傷ついたその額に、柔らかなその頬に、光を知らぬその瞳に、聞こえないその耳に、泣く事を忘れたその口に、小さなその両の手に、腕に、胸に、足に。
そして体から抜け出た赤子を、天へと導いた。安らぎの中、眠れるように。
いつかまた、生れ落ちるその日の為に。
天に愛された強く愛しい子を。

そしてまた幾年も、数え切れない年月が過ぎた。
数え切れない程の季節が巡り、そしてまた私は守護天使としての任を頂き、地へと降りた。
いつもと同じ季節が巡り、いつもと同じ季節が去り、いつもと同じ場所へと戻るだけだと、そう信じて疑った事はなかった。

名前も知らない辺鄙な街で、小さな赤子が息づいた日。私は母親に祝福を与えた。
小さな部屋で小さな赤子が声を上げた日、私はいつものように、赤子に祝福を授けた。
赤子は、病気になり、怪我をし、友達を作り、喧嘩をし、泣き笑い、そして、…私を見た。
私に声をかけ、私の声を確かに聞き、触れられぬ、私に触れた。
目一杯遊び、傷つき、強くなって、勉強をし、夢を語り、そうして年を取り、大人になって、それでも赤子は私の姿を相変わらず、見た。
その両の目は、地を見る為にあるというのに。
その両の手は其処に存在するものに触れる為に、あるというのに。
その口は、仲間に語る為にあるというのに。
その耳は、その世界を聞く為にあるというのに。

何処か遠い世界で起こった戦争の火が街へと燃え移り、燃え広がり、燃え盛り、大人になった赤子は、ある日唐突に呆気なく、死んだ。
大切な人が死に逝くのを看取り、苦しんで傷ついて哀しんで、泣き叫び、そうして赤子もまた他の人々と同じように、呆気なく死んだ。
最後に赤子が私を見て笑ったような気がした。
微かに動いた口が私の名を呼んだような、気がした。
中途半端に伸ばされた手が、まるで私に向かって伸ばされているように、思えた。
そんな事は、なかったのだろう。本当はきっと。
けれど、赤子は私を、特別だと言っていたから、もしかしたら私に救いを求めたのかも、知れなかった。
はら、はらと、静かに舞い落ちる雪の中で、私は赤子に祝福を与えた。

どろどろのその額に。
血だらけのその頬に。
私を見たその瞳に、聞こえないその耳に、私を呼んだその口に、握り締められたその手に、腕に、胸に、原型を失くした、その足に。
そうして、体から抜け出た赤子を、天へと導いた。
安らぎの中、眠れるように。

何時の日かまた、こうして生れ落ちるその日の為に。

哀しかった。
どの赤子も皆愛しく可愛らしく、そして哀しかった。
だからって何かしたいとは思わなかったし、何か出来るとは思わなかった。何かをすべきではなく、何もすべき事は無かった。

ただ祝福を与え続け、ただ幸福を祈り続け、愛し続け、見守り続ける事。
それが自分が出来る事の全てで、すべき事の全てだった。そしてそれは、どうしようもない事だった。

はらはらと、自分の代わりに天が空から舞い散らせる涙の―…雪の中で、耐え切れず天使は静かに頬を塗らした。
瞳の縁に溢れた水滴はそのまま音も立てずに零れ落ちる。守護する者も居ない、周囲に誰も居ないその空間で少女は静かに静かに涙を流した。


名を。呼ばれたからだろうか。話を、したからだろうか。

だから、自分はこんなにも、哀しいのだろうか。言葉に縛られるほど、弱くはないと思っていた。
数え切れぬ程の子供を見守り、見届け、見送った。

…、嗚呼、哀しい。と天使は呟いた。

何故、このような事になったのだろう、と天使は嘆き、そして、その言葉に愕然とした。
今、たった今、この時、此処で。
…そう、まさに今。
自分は自分勝手な望みで自らの誇りを汚し、裏切ってはならないモノを裏切ったのだとぼんやりと思った。

……嗚呼、哀しい。と、俯き顔を覆って天使はもう一度呟いた。



2007.09.09

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