自分より遥かに逞しい腕を見やって、少女は不意に抱きしめて欲しい、と思った。 そう思った自分にどぎまぎして、少女は彼の腕から視線を無理やり―けれど不自然でない程度に、外す。 夜と称したその人に、抱きしめられたら優しい夢が見れるだろうか、と、少女は少し夢想した。 きっと、抱きしめられたら同時に酷く後悔もするのだろう。 だって、その腕は、私には綺麗過ぎる。 何も気付かず彼は笑った。だから私はいつものように、何でもないと、何にもないと笑うのだ。 刺す様に痛むのは、胸の奥、化膿したこの傷口だけで良い。 枕元で眠る黒い猫を息を詰め、そ、と眼をやって見やる。 上下する背、小さな頭、閉じた紅い瞳、艶やかな闇色の毛皮。 優しいと称した夜が、どれだけ残酷か、少女は知っている。……いいや、残酷だからこそ、優しいと称するのだ。其れが、手には入らないものだと、一抹の寂しさと深い安心と、泣きたくなるような切なさで知っているから。 語る言葉は何もない。 生まれた瞬間を知っているわ、と口先だけで嘯いて少女は瞳を和ませる。 生まれる前の、白い瞬間を知っていたわ、と少女は口の形だけで紡いでみせて、それは誰だったかしら、と苦笑した。 また巡り逢えたら良いわね、と、歌うように囁いてけれどその瞬間を一刹那さえ、想像できない。 嗚呼、抱きしめて、抱きすくめて抱き潰してくれれば良いのに。 ふわふわと、風船のよう、揺れるこの心ごと。 化膿した傷口に手を突っ込んで、かき回してくれれば良いのに。 お前はまだ赦されないと、安心させてくれれば良いのに。 私はまだ赦さずにすむと、誇らせてくれれば。 そ、と黒猫の背中へと添えた手の感触にびくり、と猫は身体を震わせて瞳を細く開いた。 眠っておいで、と少女はその瞳を軽く掌で隠して、雨か、と寝ぼけたような猫の声に、雨漏りが酷くて、でも明日には直すわ、と小さく返した。 眠かったのか、猫はそのまま瞳を伏せて、黒い背中を上下させ、くぅくぅと深い眠りへと再び落ちる。 音もなく、はたはたと頬を伝い落ちる雫を乱暴な仕草で拭って、無様だ、と嫌悪に満ちた声で少女は紡いだ。 己を哀れんで流す涙ほど、無様なものはない。 己だけを憐れむこの姿ほど、醜いものはない。 憎いのも赦せないのも赦さないのも、この己自身。 優しい夜に包まれて見る夢は何時も優しくて、何時だって痛い。酷く切なく、痛む。 柔らかな夜に抱かれて見る夢は、どうしてこうも、苦しくて、優しくて、辛くて、切なくて泣きたくなる程の幸福なのだろう。 嗚呼。 自分勝手に我侭に、少女は眉根を寄せてひっそりと笑い、嗚呼、ともう一度溜息を吐いた。 貴方の上に優しい幸福が降り注ぎますように。 綺麗な貴方の背中をそっと撫でて、少女は軋む冷たい床を裸足のまま踏みしめてベッドを降り、窓を開け放つ。 秋の匂いに忍び込まされた冷たい冬の匂いを胸の奥深くへと吸い込んで、重く重く落とした。 ばさり、小さな音を立ててその背に灰色の翼を広げると窓の枠を踏みしめ超えて、少女は夜の空へと羽ばたいた。 綺麗な綺麗な綺麗な人。汚してはならない腕。痛みに、潜ませてはならない眉。 汚れて、汚して、堕ちたこの腕に触れさせてはならない、大切な人。 両手を広げて、月を抱くその影は酷く哀れで、唯、どうしようもなく滑稽だった。 月は遠くで、そ知らぬ顔で、ただ深々と輝いていた。 月は遠くて、触れる事も出来なくて、触れる事さえ叶わないから、私は唯祈るように両手を組む。 其処に居て、見ていて、此処に居て、触れさせて、触れて、永遠と云って、笑って、泣いて、赦して、一緒に、憎んで。 2008.06.22 |