御伽噺


この高揚を、喜びという言葉以外に、どう表せば良いのか解らない。
この血肉、骨の一欠けら、魂の一片でさえも、私は神様の物。
其れがどれ程の幸福感か。

是は唯、抗う事さえ忘れ去った幸福の渦。


心地よい風の吹く、丘の上に座り込んで、教会を眼下に納め、遠い昔、婆様は仰った。
「この世界は神様が御作りになったのよ。」
婆様の白い細い指が、舞うようにくるりと宙を区切る。
指が舞った後を光が緩やかに踊って、空中に見知らぬ空間を作り上げた。
何処か遠くに?がる其れは紛れもない、窓で、其の窓の外には美しい世界が何処までも広がっていた。
醜い争いの続く国も、子供を打ち殺す親も、涙を忘れた子供の澄んだ瞳も、獣のようなヒトも、闇の子供も、終わりの世界も、静寂も、光も、闇も、朝も、昼も、夜も、緩やかな速度で変化を遂げる世界をその窓は写した。
子供は身を乗り出すようにして全てを見つめて、ほぅ、と溜息を零した。

「如何して、争うの?」
「如何して、子供を殺すの?」
「如何して、ご飯を捨てるの?」
「如何して、ご飯すら食べられないの?」
「如何して」
「如何して。」
溢れる理不尽に子供は窓枠―光へと手をかけたまま、今にも泣き出しそうな顔をして婆様を仰いだ。
婆様は微笑んで、子供の頭を撫でた。

「其れが、役目だからよ。」

子供は婆様を仰いで、如何して、ともう一度繰り返した。

役目。
役目、其の一言で、理不尽は正しくなるのか。
不条理も不浄も正常と、不正は正しいと。お役目、唯、それだけの理由で?

「其れが、神様がお与えになった、其々のお役目だからよ。」
「子供が死ぬのも?」
「子供が死ぬのも。」
「ヒトを殺すのも?」
「ヒトを殺すのも。」
「誰かが泣くのも?」
「誰かが泣くのも。」
「ご飯を捨てるのも?ご飯を食べられないのも?何も持たないのも?凍えるのも?怯えて泣き叫んで、泣くことさえ赦されずに、死ぬのを待ち続けるのも?泣き喘いで、叫んで必死で手繰り寄せようとする、あの姿も、全部、全部全部?
」 窓の外を繋ぎとめようとするかのように、必死で薄っすらと薄くなり行く窓の淵を掴んで、子供は泣きそうな顔で、婆様を仰いだ。
「そう、全て。全てがお役目だからよ。」
優しく柔らかく微笑む婆様は、一度瞳を伏せて、強い力を目に宿らせて、云い含めるように子供に視線を合わせて、ゆっくりと同じ言葉を口にした。
ぐっと、拳を握りこんだ子供の口が、泣き出す前兆のように、ふよ、と開いて、即座に閉じられた。一度硬く閉じた口を今度は己の意思だけで開いて、瞳から涙を零す事さえ、出来ずに叫んだ。
「如何して!」

「聞き分けのない子供のように駄々を捏ねるのはお止めなさい。」

静かな婆様の声に、子供はぐ、と押し黙った。
今にもこぼれ落ちそうに溢れた涙を数度瞬いて散らそうとし、揺らいだ視界に子供は目蓋を強く押し付けた。耐えられなかった涙が一滴ぼろりと、なだらかな頬を伝い落ちた。
そ、と柔らかな指先が涙の後を消すようになぞった。
「リュリエル。」
静かな子供を呼ぶ声に、解っている、と子供は小さく頷いて、数度、静かに口から空気を飲み込んで、ゆっくりと藤色の、涙の色の無い乾いた瞳を開いた。
「はい。」
「いらっしゃい、リュリエル。」
己の膝を叩く婆様の、柔らかな微笑みに、子供はくしゃり、と笑って、婆様の膝の上へと腰を下ろした。緩やかに、暖かい柔らかな両腕が子供の腹を抱いた。
「リュリエル、私たちのお役目を、覚えているわね?」
「私たちに神様がお与えになった、私達の、お役目を、忘れては居ないでしょう?」
「はい。私達の身体、血肉、髪の毛の一本、心、魂の一片でさえ、私達は神様の所有物。
廻る事の無く空へとお返しする、この魂は、私たちが確かに神様に魂と時をお借りしている、其の証。
私達は唯、従順な神様の僕。―――糸を断ち切られて尚、お役目という、糸に縋り付く従順な歯車。」
幾度も幾度も幾度も云い聞かされ教え込まされた言葉を、己の言葉で子供は紡ぐ。言葉は静かに力を持って、絶対の強さで子供を縛る。
子供は紡ぐ、子供は紡ぐ、何度も何度も何度も何度も、神様の従順な僕たる己を。
神様の歯車たる自分を。眠りに着き、操る主を失うも、止まる事の出来ない、マリオネット達。
清廉たるかな。清浄たるかな、そう生きる事だけを定め付けられ、逃れる術を持たない、哀れなマリオネット。
―――――この街に溢れて、溢れる、何処までも広がり、響き続ける、希望という名の、絶望。世界の、終わり。――――終焉と、始まり。
始まりを希望と呼ぶならば、終焉を迎え続ける哀れなマリオネットたちは唯、絶望を希望と信じて、削り取られていく。
断末魔は何時も優しい音色で、空へと帰り続け、血の一滴、肉の一欠けら、髪の毛の一本、心の一頃、魂の一片でさえ、残す事を赦さない。
そう、プログラムされ生まれてきた、終焉の名を持つ、一族。

「この世界は、神様が御作りになったの。リュリエル。
――世界は常に終焉を向かえ、世界は常に再生を迎えるわ。私達の遠いご先祖は、神様に、終焉を導くことを赦された。
―再生を呼ぶ事を赦されたの。其れが私達のお役目。……其のお役目の為に、私達は此処に居られるのよ。」
撫でる様な風が僅かに湿った頬に心地よい。歌うような、婆様の声が昔話を紡ぐ。
子供は、窓の外、濁った目を空へ向ける子供を悲痛の表情で見つめて、搾り出すように尋ねた。
「あの子供は死ぬの?」
「あの子供は死ぬわ。――其の運命にあるのだから。」
「あの子供はどんなお役目を背負っていたの。」
「再び、巡り、生れ落ちる役目を。哀しみを知り、苦しみを味わい、幸福を知る役目を。
―――、柔らかな来世を生きる役目を。」
「…………、幸せに、なるの?」
「ええ。私達が連れて行く、終焉の先、永遠の其の先で、―再生の、其の中で、幸せになる為に、あの子供は再び廻る。
何度も巡り、廻って、繰り返す。幸福も不幸も、幾らでも裏返るけれど、やり直し、繰り返す為に。其の一端として、あの子供は死ぬの。」

うん、と子供は頷いた。濁った瞳は段々と光を消して、閉じる事もなく、動きを止めた。

子供は知っている。
子供は知っていた。
――――悲しいのも辛いのも唯、己の我侭なのだと。

教会から、螺旋を描いて響く断末魔は何時も、何時も何時も何時も、最後に愛しさだけを残していく。
言葉にならない、音色だけを、響かせるアイの唄。
この街に響き続ける――消して消える事の無い、終焉の音色。

「そうして、繰り返す為の、幸福になる為の、お手伝いを、神様がお与えになったお役目で、私達は行えるのよ。
身体を還して、記憶を還して、心を還して、魂を還す事で。
――――これ以上の幸福など、何処に在ると言うの。」
誇らしげな婆様の言葉に、子供は身体が震えた。
恐怖などではなく、きっと、高揚によって。
「見えるわね?終焉も、其の先も。―――あの螺旋の先に。」
「…はい。」
そう、それ以上の幸福など、何処にあるというのだろう。
身体を返し、記憶を還し、心を還し、魂を還して、全てを失い、削り取られるその変わりに、再生を呼び、終焉までアイを歌い続ける事を赦されて。

――――其れが例え、真実絶望であろうと、子供達にとっては希望だった。そうでなければならない。
其れはこの上ない幸福と、希望だ。

終焉、其れでさえ、意味を持たせて頂いて。
神様の為に、生まれ、神様の手を離れて尚、神様の為に、生き、死ぬ事が出来る。
子供は顎を上げた。腰を抱く婆様の柔らかな温度と、暖かな太陽。
撫でる様に走り去る風と響き渡る断末魔。
終焉の先に、続く再生。

響き渡る断末魔を、喘ぐように、子供はなぞった。



刻み込まれて教え込まれて刷り込まれたお役目のお話は、本当にそうなのかという、疑いを持った瞬間、脆く足元を根底からひっくり返した。
其れはそうであり、そうでなければならない。
――そう、あれない、自分は?

昔々、大昔のお話。まだ何も知らない無邪気な子供だった頃。
小さな世界に集結していた頃のお話。

2008.10.11

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