――――眩い光は何時も、何時だって、目に痛いのです。 ……とても、とても。凄く。―――― 昼ごはんには少し遅く、夕飯の準備には未だ早い時間帯にも関わらず、普段は殆ど人の居ない宿屋の裏道にはまばらに人影が有った。 宿屋の裏道は曲がりくねり、一見何処に続くのか解らない路地裏だったけれど、地元の人たちだけが知っている丘への近道でもあったから、彼らは花見客なのかもしれなかった。 縁側で老人達がのんびりとお茶でもすすっているのがこの上なく似合いそうな、柔らかい日差しが降り注ぐ、穏やかな小春日の麗らかな昼下がり。 閑静な住宅街を少し離れて、人気の少ない丘の裏手付近に大きくも、小さくも無い一軒家がぽつん、と一つ立っている。 柔らかな静寂を打ち消すかのように、その扉の小さな猫用出入り口から小さな白猫が弾丸のような速さで飛び出して、直ぐにその姿を雑踏の中へと消してしまった。 数分もしない内に扉を押し開けて白銀の長い髪を振り乱して裸足のまま飛び出してきたのは年の功はもう15,6歳になろうかという、人形のように恐ろしく整った顔立ちの少女だった。 少女はきょろきょろと周囲を見渡し、そのまま俯き加減に走り始めた。 舗装された道とはいえ、散らばる小石が足の裏を刺して痛んだけれど、お構いなしに必死で走る。犬でさえ、猫でさえ裸足で走るのだ。人の形をしたものが裸足で走れない事は無い――などと考えているはずも無く、ただ夢中で少女は子猫の影を探した。 まばらな人影が裸足で走る少女にぎょ、としたような表情を浮かべて立ち止まった。 「お、おい?お譲ちゃん、靴…」 親切なおじさんの声も右から左へと流れて、直ぐにその姿さえ背後へとただの景色として流れて消えた。 子猫の影は見えない。何処に行ったのか、検討も付かない。子猫の移動範囲は普通の猫よりも随分と広く―広すぎるほどに広くて、少女には想像も出来ない。彼ならいとも簡単に海を越える事も出来るだろう。名も知らない町を出て、名も知らない国へと行く事だって、出来るだろう。誇張ではなく。 僅かに視界が歪んで、ぎゅ、と少女は唇を噛み締めた。心臓が耳元で大きな音を立ててなり始め、荒い呼吸音が鼓膜の奥で響いた。噴出した汗は額を伝い、頬を伝い落ちて顎先に零れ、毛先をも湿らせた。長い髪が随分と邪魔臭く、けれど整えるだけの余裕も無くて少女はただ、走る。喉を焼くような厭な熱さの空気が出て行き、だらしなく開いた口から必死で空気を飲み込んだ。 つん、と爪先に地面が触れた。と同時にどぅ、と少女はそのまま派手に転んだ。膝を突いたまま必死で身体を起こそうと両手を地面へと着く。転んだ衝撃の所為か、それともすりむきでもしたか、身体の前面が酷く痛むが少女にとってはどちらでも大差の無い問題で、大した問題ではなかった。 疲れたと叫ぶ身体を無理やり地面から引き起こそうと地面を着いて上半身を起こした。 「…、あ、れ?月華じゃん。何やってん…、の…って、大丈夫?!」 聞き慣れた声が頭上から降ってきて、少女はそのまま一つ頷いた。口を開いたが、答えようにも喉の奥が痛くて声が出ない。呼吸をするだけで必死で、それ以上の行為が単に出来なかった。吐く息が荒い。荒くて、他の雑音も雑踏も声も音も何もかもを消してしまいそうだ。 「大丈夫ってあんた、何処をどう見ても大丈夫じゃないわよ!?てか、裸足じゃない!」 ばさり、と大きな音を響かせて目の前へ降りてきたのは、背中に白い翼を持った18歳程の少女だった。驚きに大きく見開いた目で少女は少女―月華を見やり、手を差し伸べた。 月華がその手を取れば少女は上へと引き上げ、月華はそのまま立ち上がる。飲み込み損ねた空気が、ぐ、と小さく喉を鳴らした。 「ちょ、と、とりあえず帰るわよ。羽根出しなさい、羽根ッ!そのまんまじゃ危ないわ、硝子の破片とか踏んでたらどうするつもりなのっ!」 手を取ったまま焦ったように続ける少女を見上げながら、ぜぃぜぃと荒い呼吸を繰り返した月華は僅かに俯き、ふるふると頭を振った。 「は?何言ってんの、正気?ほら、早くっ。」 繋いだ手をぐ、と引っ張る少女に、もう一度ふるふると頭を振った少女はその背に黒い蝙蝠のような翼を出現させ、パン、という小さな音と共に広げた。 「ご、ごめ、なさ、アリアさ、ん、ありがと、う、ござい、ま、す、で、す、けれ、ど〜…、いか、なきゃ、なの、で、す、よ〜。」 アリアは僅かに眉根を寄せた。眉根を寄せて月華を見下ろし、数瞬迷うようにその旋毛を見やって、ふん、と鼻から息を吐いた。 ―――人には人の都合がある。其れがどんなに理不尽で、其れがどんなに困難で、其れがどんなに無意味で、其れがどんなにみっともなく、愚かな行為であったとしても。本当に必要な事が、其れ以外にあったとしても、其れがその人にとって重要な事で有るならば、其れ以上の物などなく――、口出しできるはずも無い。 「あーもー、何か良く解らないけど、急いでんのね?」 こくん、と月華は一つ頷いた。はぁ、と短くアリアは息を吐き、前髪を掻き揚げた。さらり、と金の糸が流れに沿って踊った。 「嗚呼、もう、解ったわよ、今畜生。仕方ないわ、急ぎなさい。裸足なんだから絶対、飛んで行きなさいね。解った?」 ぽん、と少女の頭を軽く叩く。驚いたような瞳でアリアを見上げた月華に、呆れを含んだような笑顔を向けてアリアは月華の手を離した。こくこくこく、と月華は嬉しそうな笑みを乗せて何度も何度も頷く。 「はい、なのです〜っ。アリアさん、アリアさん、有難うございます、なのですよ〜。行って来ます、です〜。」 ひらひらと、離された手を勢い良く降って月華は直ぐにくるりと向きを変えて勢い良く翼を動かして飛んでいく。その背中を呆れたように見送って、アリアはひら、と手を振り、小さく肩を竦めた。 やれやれ、と小さく呟いてアリアは地面を蹴り、再び翼を広げ市場の方へと消えて行く。 太陽が海へと沈み空に月が上る頃、月華は街で一番高い建物、時計塔でも有る月詠みの塔の最上階のバルコニーに降り立った。一日中飛び続けて肩もやはりすりむいていたか足も手も、鼻の頭も痛い。 足の裏に感じるひんやりとした冷たさに、瞳を細める。 飛び続けていた所為で気付かなかったが、降り立った時丁度良いかと思われた温度は今は心持ち冷たく、少女は肩を抱いた。春の夜半は寒く暖かな温度をいとも簡単に奪っていく。 少女はぺたぺたと足音を立てて、並ぶ白い支柱の一本から一メートルほど離れた場所で足を止めた。 「白夜、ちゃん?」 つぃ、と支柱の影から小さな子猫の影が出てくる。触ると毛玉のようにふわふわとした短いつややかな毛並みに緑と蒼の瞳の猫だ。その瞳は随分と深く、凪いだ海のように静かだ。猫はぴくり、と小さく耳を動かした 。 「白夜、ちゃん?」 不安げに、少女は再び猫の名を呼び、距離を詰める事もせず―否、出来ずに、手を伸ばした。 猫はふん、と小さく鼻を鳴らす。 びくり、と少女の肩が揺れた。迷うように惑うように、ゆらり、と瞳が泳ぎ、伸ばした手が戻される。白猫は腰を下ろし、少女を見上げる。静かな色の見えない双眸が真っ直ぐに少女を捕らえる。 へにゃり、眉を八の字にして情けない笑顔を浮かべて、少女は再び子猫へと視線を戻し、手を差し伸べた。 「白夜ちゃん、帰り、ましょうです、よ〜?」 子猫はただ真っ直ぐに少女を見て身動き一つ取らない。少女はぐ、と喉を鳴らした。ぎゅぅ、と顔が今にも泣きそうに歪むけれど、唇の両端だけは吊り上げたまま、下手糞な笑みで少女はもう一度繰り返した。 「帰り、ましょう〜?」 子猫が立ち上がり、ぐぅ、と伸びをしたので、少女はぱぁ、と嬉しそうに破顔したが、次の瞬間、恐怖に瞳を見開いた。 くるり、と。くるり、と素早い自然な仕草で子猫が踵を返したから、だ。 「や、厭、です〜、白、白夜ちゃんっ、待ってっ、待って下さい、ですよ〜。」 ―厭です、厭です、厭です、一人は、一人になるのはもう、独りきりなのはもう、独りにされるのは、置いて行かれるのは捨てて行かれるのは、もう。 少女は恐怖に見開いた瞳を、驚愕に再び見開いて口元へと手を当てた。口から下らない言葉が溢れ出てしまわないように。下らない思いが自分勝手な汚らしい思いが零れてしまわないように、覆った掌の下で下唇を噛み締めて静かに一度瞬いて、酷く間の抜けた笑みを乗せた。 ぴく、と小さく耳を動かした子猫はトン、と軽い音を一つ落として軽々とした足取りで塔の螺旋階段へと消えて行く。 その背中を泣きそうな笑顔で呆然と見送って、その三角の耳の先も陰さえも見えなくなってから少女は自分が息を詰めていた事を知った。大きな溜息のような自分の吐息が耳に届いたから。 はたり、と汗とは違う塩辛い液体が、視界を歪めて頬を滑り落ちた。 「置いて、行かないで、下さい。お願い、ですから〜…、独りに、しないで。」 どうか。どうかどうかどうかどうか、誰か。 ぽつり、血反吐を吐くような呟きを無意識の内に落として、掌で目元を覆い、身体をくの字に折り曲げて、ずるずると座り込む。ひく、と引きつる喉の音が煩い。空気を吐き出して飲み込んで飲み下して、どれ程そうしていたか、しゃっくりが落ち着きを見せた頃泣きはらした赤い目で少女は顔を上げた。 このままじゃあ月詠の塔に七不思議が一つ増えてしまいます、等とどうでも良い事を考えながらぼんやりと磨かれた床を眺めて大きな重い溜息を一つ落とした。 かつ、り。硬質な足音が響く。立ち上がる気力も無く、ぼんやりと足音の方へと視線だけを向けて。 …少女は固まった。完璧に、頭の中も心も、フリーズした。僅かに開いた唇から、言葉だけが意味も無く滑り落ちた。 「…白夜、ちゃん?」 だって、信じられ無い。信じられる筈が無い。先ほど何処かに消えてしまった彼が、此処に居る事など。 呆れたような半眼で、緑と蒼の瞳と天辺が短く後ろの方が長い白い髪を持つ少年は、ふん、と鼻を鳴らし、硬質な足音も高らかに少女に近づくと手を差し伸べた。呆然と少女は手と少年を見やり、おずおずとその手を取って立ち上がりながらも尚、呆然と呟いた。 「…ど、してで、す〜?」 にぃ、と少年の唇の両端が強く吊り上がり、酷く優しい瞳が柔く弧を描いた。 「だって、言っただろう?”独りにしないで”って。」 少女の瞳が静かに見開かれ、後悔するように、申し訳なさそうに歪んで伏せられた。 「…ごめ、ごめんなさい、です〜。大丈夫、大丈夫、なのです、よ〜。独り、でも。独りでしても、大丈夫なのです〜。」 貼り付けた笑みで少女は少年を見上げ、少年は僅かに首を傾けて、にぃ、と口の両端を吊り上げ、先ほどと変わらないような―、けれど何処か、にやにやとチェシャ猫のような笑みを浮かべて、少女の額に手を伸ばし、ピン、とでこピンをした。 「み”!?びゃ、びゃ、びゃ、白夜ちゃん?」 どちらが猫か解らないような困惑の声に更に楽しそうに少年は笑い、爪が尖っていようが少しばかり刺さっていようが、血が流れようが、少しばかり傷になろうが、痛もうが構わないと思った。 「ばーか。独りで大丈夫なんて、ンな訳ねぇだろ。独りで大丈夫な奴なんて居ないんだよ、基本的にはな。」 呆れたような少年の声と少年の笑顔に、少女は勢い良く顔を上げて首を横に何度も振った。 「大丈夫です、大丈夫です、大丈夫なんです〜。ですからっ、ですから、白夜ちゃんは何処に行かれても、構わないのです、よ〜。お好きな場所に何時だって、今だってっ…。」 懇願するような少女の声に少年は半眼になって溜息をついた。 「お前は何時になったら、何処まで行ったら俺を信じてくれるンだろうな?御主人様。」 どれだけだって、一緒に居るのに。何時までだって一緒に居るのに。命位捧げるのに。 人生位捧げるのに、捧げているのに。 どれだけだって一緒に居たのに。 何時だって傍に居たのに。 何時になったら。 何処まで行ったら。 「…白夜、ちゃん?」 ぱちくりと瞬いた少女は不思議そうに首を傾け、けれど少年はそれ以上先を続けなかった。ふん、と少年は不機嫌そうに鼻を鳴らして、仕方ないか、と肩を竦めた。 「帰ろうぜ、いい加減。もう太陽も眠りについて、街も夜に解ける。」 つぃ、と引っ張る少年の速度に合わせてぼんやりと歩き始めた少女に、少女を振り返る事無く少年は仕方ないと、付け加えた。…言い訳の様だ、などと思いながら。 「俺はもう家に帰りたい。」 何処の、などと付け加える必要は無いだろう。自分達の家はあそこだけだから。 何処にも行かないで。 何処に行っても良い。 叫ぶ声は何時も己の其れで、結局どちらの糸も断ち切れない。 自分の汚さを懺悔するように、縋るようにその手を握り締めて、困ったような嬉しいような、ほっとしたような満面の笑みを浮かべて少女は大きく頷いた。 ――――眩い光は何時も、何時だって、目に痛いのです。 いつか消えてしまう瞬間を覚えるから。嘘のように鮮烈で優しくて、何時だって手に入るような錯覚に陥ってしまうから。永遠を願ってしまうから。 眩い光は何時も、何時だって、目に痛いのです。 ……とても、とても。凄く。―――― 足掻いて足掻いて足掻いてみよう。今が夢幻のような、モノなのだとしても。 ……そして番外編その1に続く(何) 2008.01.14 |