小春日のぽかぽか暖かな屋根の上なんていう妙な場所に30cm四方の洗濯板のような代物が立てかけられている。 その傍には苛々と爪を研ぐ白い子猫が一匹。何処かの動物愛護団体が見つければ、うっかり上って降りられなくなった子猫がっ!なんて騒ぎに位はなるかもしれない。 もしくは、洗濯板の持ち主が見つければ、ぎゃあと悲鳴を上げて、子猫を追い払おうとするだろうか。――それ以前に、子猫が逃げ出す方が早いのかもしれないが。 どちらにしろ、生憎というか、幸運にというか、その姿を捉えた者は無かった。――実際居た所で、騒ぎにはなりえないだろうが。 「どうしたの白夜?機嫌悪そうだね。」 不意に男の声が蒼い空から響いた。 ぎら、と悪い目つきで子猫は顔を上げ男を睨んだ。 白い肌に、毛先が腰まである長い白髪、白いワイシャツ―タイの変わりに白い紐のリボンを結んでいる―に、白いパンツ、白い革靴、約1m程の白い翼を背負った全身が妙に白い男が今にも屋根に足をつけようとしていた。 へらへらと笑う男の、弧を描いた唯一異色と言って良い、ルビーのような赤い瞳が楽しそうにきらきらと輝いている。 騒ぎになりえるはずが無いのだ。其れは紛れも無く爪とぎ板であったし、此処には翼あるモノも多く住んでいるからである。 「何だ、お前か、烏。てか、何でお前は今日烏の姿で来ないんだ。」 きょとん、と男は目を丸め、何を当たり前なことを、と肩を竦めた。 「何を言うんだい、白夜君。烏の姿なんかで来たら君に喰われるじゃないか。」 「誰がお前みたいな不味そうなヤツを喰うか。単に狩るだけだ。命までは取らん。半死半生位で止めてやる。むしろ狩られろ。」 ふん、と鼻を鳴らして不遜に言葉を連ねる子供の声に、男は溜息を吐いて首を何度も横に振った。 「厭だよ。無茶言わないでよ、白夜君。そんな事したら僕が御主人様に怒られ…」 わざとらしく仕方ないな、これだからお子様はというような雰囲気を出そうと努めていた男は、不意に言葉を止め、遠くを見るような瞳で自分の主を思った。 長い長い沈黙が落ちた。 何処かで小鳥がピィと高い声で鳴いた。 美しい自分の主の姿を思い―仕える喜びと誇りと――――、その他諸々を走馬灯のように廻らせて、男は溜息を零した。 「…………ると、良いな。」 主はきっと、怒りはしないだろう。 使い魔が一匹死んだ所で、哀しむかさえ、不便だと感じるかさえ怪しい――――、いやきっと、哀しみも、不便だと感じもしないのだろう。 だって、彼女は完璧なのだ。 既に完璧である物。完璧であるが故に、欠けたもの。欠けたが故に完璧である物。 完成されたもの。他の何も必要ではないもの。………、美しき――――、我が主。 本当に役に立っているのだろうか。使い魔である己は、自分の主の。 ――いやいや、きっと哀しんでくれるはずだ。 少し位は、小指の爪の先位は…。きっと、不便だと思ってくれるはずだ。…というか思ってくれると良いな。 男がぼんやりとした目で子猫を見つめ、哀愁を背中に背負い始めた辺りで、子猫は疲れたように溜息を漏らして、やれやれと首を振った。 「なんていうか、お前も本当哀しいよな……。」 「憐憫!?憐れまれてる?!僕。」 がびん、と衝撃を受けた男は何処までも演技染みた動きで泣き真似をし頭を振った。 音も立てず座り込んで、は、と子猫は短い笑いのような、息を吐き、つぃ、と男から空へと視線を転じた。 蒼い空だ。――――昔誰かが目に痛い蒼さだと、泣きながら哂った、微笑いながら泣いたような、良く晴れた空だ。 長い長い、沈黙の間に、穏やかな日々の声が聞えた。 「……報われないよなぁ。」 「うん、報われないよね……。本当。」 「仕方ないけどさ。」 「うん、仕方ないんだよ。」 ぱさり、と小さな音が響いて、男は子猫の傍に腰を下ろした。膝を立てて、片手を膝の上に置き、掌を空に向け、その上に肘を立て頬杖を着く。 「…仕方ないんだよ、だって、大事なんだもの。」 「……。」 「僕が欲しくて堪らないあの、闇の黒い髪も。きらきら輝く宝石みたいな紅い瞳も。出来が良すぎて気持ち悪い人形みたいな、あの容貌も。冷たくてぞっとするようなあの掌も。僕を見て本の少しだけ、瞳を細めて微笑んでくれるあの表情も。何でも出来て、何にも出来ない不器用さのような、あの性質も。必死で縋り付いて、堂々と立ってるあの姿勢も。鈴を転がしたようなあの声も。残酷な性分だって、気紛れさも、完璧であろうとしつつ、欠けようとするあの矛盾も。全部全部、大好きなんだもの。仕方ないよ。報われないけど。」 「………、お前。……大丈夫か?」 「…なんか心配されてる!?…うぅ、恥を忍んで告白してるのに。」 「一体、何の。」 子猫は呆れたように呟いた。男は身体をぐ、と乗り出して、拳を握り締め、何処か夢見る瞳で子猫を見つめて満面の笑みを浮かべた。 毎度の事ながら、子猫は内心、少しばかり引いた。 そんな彼は、自分の主の自慢をしている時、同じような表情をしている事を、未だ知らない―――。 「え、聞きたい!?もっと聞きたい!?この間なんてね、街でご友人が出来たらしく、なんでも洋服を戴く約束をしたとかで、手紙を書いてこの僕に!!他の誰でもなく僕に、届けて、貰える?なんて首を傾げながら手渡されてっ!!あの時の感動といったらっっ!!!」 パシられている。…っていうか、パシリですらない。むしろ子供のお使いレベルだ。等と子猫は心の中で呟き、本当に使い魔として使われて無いんだなと、自分の事を差し置いて思った。 が、流石にこうも幸せそうな烏に何も言えなかった。 烏、―彼にも名前があるらしいが、彼の主しか彼の名を呼べないらしい―、ある意味、当然である――が、烏とそのまま呼ばせるセンスも如何なものかと思ったりもするが、他の名を付ける事は出来る筈も無い。 子猫も、烏もお互いに知っているのだ。 自分達の主が自分に与えた最初の、契約、報奨――、名前の意味を。 彼らは同じ穴の狢、なのだから。 「あー、良かったな。」 力説する男の言葉に適当な相槌を打ちながら酷く疲れた気分で子猫は呟いた。 一通り自分の自慢話―なのか何なのか良く解らないものを思う存分ぶちまけた、一見ミステリアス―というか、何処か軽薄そうな青年はすっきりした顔で、ふ、と首を傾けた。 「そういや、白夜君は何を苛々してたんだい?」 「あ、あー、何かもう疲れたんだけど。」 「…おや。何か疲れるような事でも?――――、そう言えば、今日は居ないんだね。」 心底不思議そうな表情で男は首を傾け、つぃ、と子猫へと視線を落とし、それから家の方へと視線を向けた。 「それとも、一緒に居ないだけかい?」 はぁ、と子猫は溜息を吐き、首を振った。 「約束があるとかで出てったよ。さっき。」 「ああ、だから白夜君は拗ねて?焼餅を焼いて?苛々してるんだね。」 「………そんなわけあるか。」 心底ぐったりと子猫は呟き、男はありえないと両目を見開き、子猫を見つめ首を振った。 「ありえない、ありえないよ、白夜君。僕なら拗ねるし焼餅も焼くね!だって主が一人で!…僕にだってそんな時間くれないのに。」 ぎり、と爪を噛む烏を横目で呆れたように見つめて、子猫は、頭を垂れた。 「お前が異様なんだ。烏。……なんだってそんなに独占欲が強いんだ、お前は。主が使い魔に向けるならともかく。」 「…そんなの決まってるじゃないか。白夜君。主が独占してくれないからさ。主が死ねというなら喜んで死ぬのに、何だってするのに。要らないと言われたなら、捨てられる覚悟だってあるのに。僕の誇りも感情も捻じ伏せて、主の為に、主の前から居なくなる覚悟だって有るのに。主は大して何も望んではくれないから、その分僕が望むのさ。そこまで、僕に言わせる気かい?君だって本当は同じだよ。白夜君。使い魔になった時に、君も、誓ったんだろう?」 ―――絶対服従。 「……、嗚呼。嗚呼、誓ったとも。誓ったさ。」 当時を思っているのか恍惚の表情で烏は嗤い、子猫は口を閉ざした。 長い長い沈黙を破ったのは子猫だった。 「昨日、また言われたんだよ。契約を破棄しないかって。」 ぎょ、としたように烏は目を見開き子猫を見つめた。死刑宣告に近い言葉だ。契約破棄。 「…でも、白夜君、君はまだ…。」 「見りゃ解るだろ。ンな事。」 「…君何か粗相でもしたのか?何だって君の主はそんな―――。」 ひょい、と子猫は肩を竦めた。 「一緒に居るのは、辛いだろう。と。何処にでも、行って良いんだと。自分を置いて好きな場所へ行っても良いんだ、と。―――如何して、自分と一緒に居てくれるのか考えたらしい。」 「どうしても何も!…そんな、そんな事!!」 やれやれ、と呟かれる声に血相を変えて、君は如何してそんなに落ち着いているんだい、と烏は呟いた。まるで応えるように子猫が口を開く。 「考えんなそんな事。意味無いだろ。どちらかだけが望んでるなんて無いだろ。一緒に居るんだから。厭なら何処にだって行くさ。でなきゃ、何の為に足があるんだ。何の為に別々の生き物なんだ。てか馬鹿の考え休むに似たりってか、休んでるほうがどれだけだってマシだ。あいつの場合。しょうもない袋小路に陥って、ろくでもない答えを導き出すンだから。本っっ当ろくでもない答えしか導き出せないんだから。」 はん、と呆れたように鼻で笑って、子供は一息に吐き出した。 子猫にとっての、単なる独り言だったのか―はたまた愚痴だったのかは解らない。 「……、…、大変そうだね。白夜君。だけど君はもっと伝えるべきじゃないかい?君がどれ程君の主を大切に思っているか。主がどれ程重要かって事を。」 「伝えてるさ。どれだけだって。―――あいつは信じないんだ。…、俺を信じて無いんじゃない。自分を信じて無いんだ。思われる価値のある自分、を。だからどれだけ言っても右へ左へ流れて良くんだろう。」 「………、諦めるのかい?」 「まさか。俺は諦めが悪いンだ。―――何度だって言うさ。どれだけだって伝えるさ。あいつが無意識に信じるようになるまで。」 くつり、と烏は喉を鳴らした。子猫は烏を見上げて、にぃ、と歯を見せて肩を竦めた。 「君らしいよ。白夜君。――――――、さて、そろそろ僕は失礼するよ。思ったより長居をしたようだ。君の御主人様も帰ってきたようだしね。」 「……嗚呼。」 立ち上がろうと中腰になった烏が、不意に、ぴたり、と動きを止め、ぱぁああ、と顔を綻ばせ虚空を見上げた。 「呼んでいるっ!!久々に。我が主の声が!あああ、こんなことしてる場合じゃないっ、それじゃあね白夜君、急がなくちゃ。待ってて下さいっ、今すぐに参りますので!!」 ぐ、と拳を握り締め一体何処の電波を受信したのだろうと、場所が場所なら思われるような言葉を虚空に叫ぶ男を心底呆れた瞳で見つめ、彼の、主を目の前にした途端お行儀良く立ち振る舞いを整える男の姿を思い出し、更に呆れた。 何だってこいつはこうも、使い魔仲間の前では暴走するのだろうと、心底疲れて子猫は思った。 ―――多かれ少なかれ、使い魔は主中心ではあるけれども。彼はやはり行き過ぎだ、色んな意味で。 急いで飛び立つ男の音速で消えて行く背中を心底疲れと呆れで見送り、子猫は、ぐぅ、と一つ伸びをした。 烏大暴走の巻。…というか、本気で暴走しました。アレー? 使い魔通しは交流があったりするのです…。 2007.06.10 |