小さな教会の、鐘が鳴る。 螺旋を描いて空を廻る、今日の唄は涙が零れそうになるほどに、胸を締め付ける切ない愛の唄―――。 大きな塔へと続く、濃い緑の柔らかな絨毯が生い茂った丘の上、腰まである、下の方にだけ柔くウェーブがかった癖のある長い白銀の髪を追い風に遊ばせながら、草の上に腰を下ろした少女は僅かに曲げた膝の先、靴先をぼんやりと見やった。 目に掛かる、前髪とも横髪とも判らない長い髪を片手でそっと押さえつけて、少女は視線を靴先から教会へと向けた。 細い十字架を掲げた白い小さな教会から、立ち上るように透明な風の流れのようなものが、螺旋を描きながら天高く、何処までも高く上っていく。 教会から響き渡る、囁くような、切ない音色はソレ自体からも、響く。 教会で歌う、葬送歌でも、鎮魂歌でも、賛美歌でもない、愛の唄は何時も、ソレから響きわたる。 細い、柔らかな愛の唄を補佐するように、葬送曲は響く。賛美歌を装飾し、鎮魂歌は流れる。 バイバイ、と少女は軽く手を振った。 数度瞬いて、いってらっしゃい、と口だけが軽く動き、笑みの形で閉じられる。 少女は蒼い空へと上る、ソレを、ソレが辿り着くその先を眺めて、太陽の眩い光に瞳を細めた。 行ってらっしゃい、逝ってらっしゃい、いってらっしゃい? あの螺旋の中には彼女が傍に居たヒトも含まれている。――だからって、何があるわけでも無い。幾らか、薄情だろうか。けれど。――湧き上がるのは唯。 「まァた、こんな所に居たのか。――――、リュリ?」 不意に後ろから頭が前へと押されて、酷く緩慢な動作で辞儀をするかのように顎が下がり、上半身が前へと傾いた。 「わ!?え、ちょ、ま、何!?重い重い重いから!!」 背後を確認しようと、慌てた様子で首を捻り、蒼銀の長い髪が風で踊るその様を捉えて、少女は眉根を寄せる。 のしり、と背もたれに凭れるかのように圧し掛かる相手の頭が少女の頭の上へと乗せられている重みにぎゃあぎゃあと少女は叫び、背中合わせにふんぞり返って座る青年は可笑しそうにけらけらと笑った。 「重いんだってばっ、キューレ!!」 くつくつと喉を鳴らしながら青年は上半身を前へと倒し、反対に少女の体が反る様に後ろへと倒れた。 最初に座っていた状態とほぼ同じような状態で動きは止まり、はぁ、と少女は溜息を吐いた。青年は相変わらず楽しそうにけらけらと笑う。 ざぁ、と風が吹く。それでもこんなに離れているというのに、教会から響く切ない音色は途切れない。 「は、ちゃんと加減はしてるよゥ、と、嗚呼、シェイラか。」 「…え?」 「指揮。シェイラだろゥ、この音は。」 「………うん。」 小さい沈黙が落ちて、よいせ、という掛け声と共に背中の温もりが消え、うーん、と伸びる声が聞えた。 伸び上がった青年はちらりと横目で少女を見やり、少女は髪を押さえつけるようにして、教会から立ち上る螺旋へ視線を落とした。 「そっか。」 さくり、さく、と青年が草を踏む音が響く。少女は膝の上に両肘を立てて、頬杖を着くように顎を乗せる。 草を踏む音が消えて、羽音も無ければ、残るのは唯、長い長い沈黙だけだった。 身じろぎ一つ無い音色に、けれど少女は青年がまだ此処に居るのだと解っていた。例え独り言だったとしても構わなかった。 「………、シェリィ、笑ってた。笑ってたのに、泣いてた。」 一度、目を伏せる。 伏せた目蓋の裏に、朗らかに微笑む姿が映り、幾筋の涙が零れ落ちたあの瞬間を鮮やかに映し出した。 幸福に満ちた笑みが、きらきらと眩く輝く優しい光に融けるように、それから―――。 「………、そうか。―――お前は泣かなくて良いのか、リュリ?」 聞えてきた優しい静かな声に、は、と少女は目を見開いた。 ざぁ、と風が鳴く。長い白銀の髪と蒼銀の髪が、風に舞い踊るように大きく揺らぐ。 風が走り去る痕を残す丘の下へと見るとも無く視線を落として、見開くのと同じだけの時間を要して、少女は目を伏せ、青年は前髪を掻き揚げるようにして髪を耳へと掻けた。耳に埋め込まれた、銀の十字架のピアスがきらり、光を反射して鈍く光る。 「…、寂しいね、って?」 少女の口から硬い声が零れるように落ちて、少女は惑うように口を噤んだ。ちらり、少女の頭を見やって青年は視線を螺旋の先へとやった。 「哀しいね、ってサ。……お前が見送ったんだってな。」 空へ上っていく螺旋。 綺麗に飾り立てられた音色は、叫び声。 慈しみだけを、唄う様インプットされた天の繰り人形の、哀れで幸福な、断末魔。 ――唯其れが、慈しみに満ち満ちて、愛と呼ぶ事しか出来ないだけで。 唯、其れが彼らにとって至上の喜びであるが故に、最初から組み込まれた悲願であるが故に、何処までだって優しく柔い、唄に聞えるだけで。 響く音色は削り取られ終末へと向かう、魂の音色。 「うん。アディと一緒に。」 空を見上げる少女の笑みを彩る口元は僅かに歪だが、瞳に涙は無く、声は何処までも伸びやかだ。青年は一歩、足を踏み出す。 さくり、と草を踏む音が響いた。 「嗚呼、そりゃあ、大変だったろう。―――、良く頑張ったな。」 音も無く唐突に、青年の両膝が少女の真横にあった。後ろから片手で緩やかにぬいぐるみでも抱くかのような動作で少女を抱きしめて、良い子良い子と撫でる、青年の大きな掌の温かさに、意図せず、はたり、と瞳から涙が零れて、少女は乱暴な手つきで目元を擦った。 「―――死者を悼んだって良いんだ、リュリ。」 少女の頭の上に顎を乗せるようにして―実際の所は少女の髪に柔らかなキスを一つ落として、青年は静かに目を伏せた。 「シェリィは、…、最期の仕事をする為に、逝ったのに?」 目元を片腕で覆い、泣きそうに歪んだ少女の口元が確かめるよう、何処か僅かに期待するような声音で響いた。 「神様のお膝へと還っても。ソレが俺達の命題でも、悲願でも、何で有っても。―身勝手でも、我侭でも、傲慢で、正しくなんて、なくても。当たり前じゃねェか。……なァ、そうでなけりゃ、本当に俺達の意味は、其れだけになっちまうじゃねェか。」 答える青年のまどろむような声は、まるで子守唄のように何処までも優しい。すぅ、と呼吸を吸い込む音が響いた。 「…そうね、……、そうだわね。でもね。」 ほ、としたように告げる言葉を切って、少女は一度だけ軽く唇を噛んだ。震えた唇を一度閉じて、短い沈黙の後に少女は思い切って口を開いた。 「シェリィに云ったら、怒られそうだけれど。私は、シェリィが羨ましいよ。」 まるで懺悔のような、何処か罪悪感に満ちた声に、青年は溜息を一つ零した。 ―――嗚呼、其れは、きっと、此処に住まう者ならば誰でも思う。一度ならず、何度でも。 少なくとも、その為に生きていると教え込まれた者なら、誰でも。そして有り難い事に此処では、誰もがそう教え込まれ、――その度合いが些か高いこの少女には、その想いはきっと大きいのだろう。 …その瞬間を、誰もが焦がれ、そして、怖れる。 「…………、知ってるよ。俺もその一人だしィ?……てか、一応俺も怒るんだけどねェ、解ってるよなァ?」 「…うん。」 溜息混じりの脅すような音色の言葉に、こくり、少女は頷いて答えた。青年は大きく肩を竦めて少しだけ、哀願の意を示してみようかと少女の肩へと顔を埋める。体制的に少し腰が痛かったけれど。 「―――俺はお前が此処で、唯物欲しそうな顔をして、あれを見てるだけで、済んでるだけで良かったって思ってるけどな。」 「――――、酷いわねぇ。」 肩が微かに震えて、涙混じりの明るい声が響いた。胸中に渦巻く、感情は多分色々と複雑で、どれが正しいのかすら少女には解らない。 「酷いのはお前だろう。」 「……そうね。解ってる。」 「本当に解ってンのかね、お前は。骨も皮も肉も髪も血も何一つ残さず光の粒子に消えて、唄を響かせ螺旋を描き始める、なんざ、俺はまだ見たくねェよ。――、其処にある無なんて、考えるだけでぞっとするね。」 呆れたように、ふん、と鼻を鳴らして、青年は瞳を閉じた。 ―唯、焦げ付き焼き付けた影さえ残さず消え去る、死のその瞬間を――至上と望む彼らは生物としては、既にどこかが壊れているのかも知れない。生きた後に訪れるのが死ではなく、死ぬ為に生きる、など。嗚呼、けれど、どうしようもないのだ。だって其れはもう、本能と云って何ら差し障り無い代物なのだから。 知りつつも逃れる術も無い―否、例外として魂の変容が上げられて居はするものの、其れを望む者は殆ど居ない。魂の消滅を逃れたがり、魔族との契約の末、消滅を免れた堕天使が居たと云うが、それですら、眉唾物だと青年は思っている。 光に焼かれると知りつつ飛び込む羽虫のようだ、と彼は常々、皮肉気に思う。 「解ってるわ。皆そうだったもの。そうなるって事は解ってる。」 「解っていて確認するお前は、時々残酷なンだよ。――確認なんざしなくたって、解ってるだろうに。」 死者の音色を聞きながら、死者を弔うでもなく唯、意味の再確認を繰り返し続ける事の、何と無意味な事。教え込まれた事を刻み付け、刻み付けあい縛り付け、縛り付け合うような、この行為の何と空しい事。 それでも、糸の切れない繰り人形は、唯一の主の為に舞うだけ。 操り主さえ居なくなってしまっても、自動人形のように繰られ続けるだけ。 全ては御心の、そのままに。 「……、解ってる、って事にしておいてよ、キューレ。……ねぇ、シェリィはもう、辿り着いたかしら。」 「まだだろう、まだ、聞えてる。」 「………、唄が消えたら、シェリィが消えたら、今度は誰が指揮をするのかしら。」 「さァな。年功序列だから、俺達はまだ当分先っぽいけどな。」 響き渡る切ない切ない切ない、愛の唄。 ――――、最期のお仕事。此処に生まれた者が生まれながらに背負った、運命。堕ちて尚、逃れることの出来ない、運命。 命題とさえ、云って良い。魂の消滅と引き換えに螺旋のその先にある、天の扉を開く。 体が消えて、心が消えて、感情が消えて、記憶が消え、魂が削り落とされ、最愛の―、残し続けたいと願う、想い出さえ消えて、声が消える。 年功序列でヒトが死に逝くのは、膨大な記憶量と、感情量の多さが扉を開き続ける時間に比例しているから、唯、それだけだ。 扉を開き続けるのと引き換えに、音が途切れ、全てが終わる、唯、その瞬間の為に、唯、その為だけに此処に生まれた者は、生きる。 いや、生きる事を強制される。 「キューレ、長生きしてね。」 「お前もな。」 静かに響く螺旋の歌は、空へと吸い込まれていく。 ―――空へ還る為に。唄が消える数日後には、頬を零れる涙が消え去り、忘れ去られるのだとしても。 賛美歌と葬送曲に彩られた哀しい音色は、優しく切ない、哀の唄。彼女を偲び、悼む事が赦される、僅かな時間。 彼女の唄が消えたなら、きっともう、少女達は彼女を忘れてしまうだろう。悼むべき、新しい哀しみは、直ぐに訪れるのだから。 そして、偲び続ける事の出来る墓は何処にも無いのだから。墓に入れるモノ―彼らは体の一部分さえ残せない―が無いのだから、ソレは仕方の無い事で、死に逝く事は悲願を叶える事と同義であるが故に、彼らは死者を憐れむ事も出来ない。 別れはいつだって哀しいけれど、死は怖れるモノではなく、そして遠いモノでもない。去り行く者と残され行く者。彼らは唯、繋いだ手を離し続けるだけだ。 ただ、それだけしか出来ない。 離した手越しに蒼い空を仰いで、唯そのために生きている、と、慰めるように呟いて、今はまだ其処に居ないと、確認して。 リュリは強く抱きしめるキューレの腕を握り締めた。 リュリ達は終焉の一族なので。勿論普通に天使のお仕事もこなしますが、本当のお役目は終焉と立ち会う事。 なので死んだ際、身体(=魂)は一部分たりとも、残りません。 だから、死んだら巡りません。 お役目が廻ってくるまでに死にそうになると半自動的に霊体にリセット、強制的に元に戻されます。 2008.06.22 |